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コラム  アーカイブ (5)
4月21日() 月暦・弥生(三月)二十四日 下弦  
春はさくら
 家の近くの神社の桜の老木が今まさに満開。
村のあっちこっちに咲く山桜やソメイヨシノの街路樹などに比べると、
少し遅れて、八重桜などと同じ足並で春に参加する。

 今年は例年になく、東京で、勝沼周辺で、この村で、たくさんの桜を見た。
満開の時期がだいぶずれるので、いつもより長い間桜の花に囲まれて、
春を楽しんでいる気分でいる。
 特に、この村の峡谷の斜面に点在する山桜はなんともいえず、心を和ませ、
春の暖かく開放的で優しくてのいんびりした空気感をこの谷間全体に振り撒いている。
 ところどころ、濃い緑を見せている針葉樹の群生以外は、薄い茶色に覆われた
雑木の枯れ木の山の中に、初め、うす〜くもやったような桃色のかたまりが出現して、
それが見る間に真っ白い満開の桜となり、微妙に違う花の色を競い合って、
点在している。
それが終わると、やっと、雑木の新芽の黄緑が目立ち始め、山は沢山の種類の違った緑の競演の始まる第二の春へとつながっていく。

 この時期になると、よく「花見はしましたか?」と聞かれ、
こんなに沢山の桜の花を見、味わい、楽しんでいるのに、
「いえ、まだです。」とか、「今年は、花見はできませんでした。」などと
答えている自分に気づき、いつからなのだろうか、花見の宴会と花見が一緒になってしまったのは、と考え込んでしまう私がいます。
ともあれ、春の山の、木の、変り行く景色は、よいものです。
元気にしてくれます。やる気をおこさせてくれます。

4月14日() 月暦・弥生(三月)十七日 満月  
花に嵐
 今週は、まさに「春嵐」。全国各地に大雨と強風をもたらし、
西日本では、洪水や土砂崩れなどの被害も発生して、大変な週でした。

 「花曇り」、「春の嵐」と、春の気候は、のほほーんと穏やかに温んでばかりではなく、
季節の変わり目の憂鬱さや、厳しい側面も、のぞかせます。
 
「花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ。」
独特の哀歓とおかし味のある作風で、親しまれた作家、井伏鱒二が
唐の詩人、于武陵(うぶりょう)の『酒を勧む』という漢詩を訳したなかの一節。
 この時季、年度末の「出会いと別れ」も、反映してか、
この詩が、いつも脳裏に浮かび上がり、桜の花の美しさの陰にも
なにか、憂いのようなものを同時に感じて、刹那さ多少。

 「花が咲く」、「嵐が吹いて散る」、「出会い」があっての「別れ」、
双方とも、自然の営みや人と人との繋がりのなかの「陽と陰」、「明と暗」の対比。
春の悦びや期待感のなかの表裏、人との出会いと別離、
自然とともに生きたひと昔前の日本人の、喜と悲、盛と衰、生と死。

 「一木一草すべて生命のあるものは無常を具現している・・・」という
芭蕉の無常観に通じるこの季節のこの情緒。

 春の嵐は、桜の花の、萌えいずる若葉の美しさ、生命感ばかりでない
いろんなことを考えさせてくれる、きっかけになります。 
4月5日() 月暦・弥生(三月)八日 上弦  清明
春眠
 「春眠、暁を覚えず」
一昔前、父親の世代がこの季節になると、朝、なかなか起きられず眠さに耐えながら
言い訳のようにこの言葉を口にしていたのを思い出します。
 確かこの後、「ショショニテイチョウヲキク」、「ヤライフウノオト」、「ハナオツルコトシンヌタショウゾ」と、続くはずである。要するに、「春の朝の眠気は夜明けも気づかないほどで、明け方の鳥の鳴き声を聞いたような気がするけれどさだかではない。夜中には、雨風の音がしていたようだが、その雨風で花が散っていなければいいが、ちょっと心配。」というような訳の中国の漢詩だけれど、この気だるさが残る季節感が共感を呼びます。

 たしかにこの季節は、身体もだるく、朝、蒲団から抜け出せずについウトウト、
気がつくと8時を過ぎていたというようなことがたびたびある。
身体が冬の寒さのための防御態勢をほどいて、夏の身体に移行しようとするのだけれど体脂肪のバランスや発汗、発熱などの代謝がまだ慣れない、練習中のようなところがあって、オタオタと歯がゆい感じです。

 行動や感情の制御に関係するという「前頭葉前野」の働きが鈍ったりしているのかな。
などと思ったりします。
春の季節に関係なく、最近、「DSトレーニング」など「脳を鍛えるなんとか・・・」
というような「前頭葉前野」を鍛えて脳の活性化をはかろうという話題を耳にすることが多く、ちょっと気になっていたのとが、一緒になって、よけい「能の働き」ということを意識。 

 普段の生活の中で、読み、書き、計算、つまり、音読をして、文章を書いて、簡単な計算をしていれば、脳はそれほど衰えない、ということのようですが、考えると、ちょっと前の子供の頃ではあたりまえのことなのですが、今は、新聞を読まない、日記などを書かない、買い物でおつりなど計算しなくても済む、など、生活が変ってきたことが「脳」にとっても影響しているようです。

 もうすこし、ルーティーンの生活でも基本的な頭の運動をしようと思うしだいです 

3月29日() 月暦・弥生(三月)二十日 下弦 
山菜採り
 いよいよ、山菜採りの季節が佳境に入っててきました。
タラの芽、コシアブラ、ワラビ、コゴミ、などなど、
どれをとっても、この季節の息吹を閉じ込めた野趣ある味と香りがして、
寒さを耐えた身体が春の暖かさを待つのと同じように、楽しみのひとつです。

 ただ、この冬は例年と比べて、雪が少なく、極端に温度の低い日のつづく、
異常気象で、山菜にも影響が出てくるのではと、ちょっと心配です。

 田舎の暮らしには、少し前まで、昔の狩猟採取の文化や自然に対する
倫理観のようなものが息づいていたような気がする。
山菜採りにしても、自分の足だけで深山に分け入り、根こそぎ採るようなことはせず、
駕籠に入るだけのものを戴いて来るといったぐあいで、ある節度がはたらいていた。
狩猟も同じで、狩ると狩られるの関係において人と動物は同等、互いに、
命を欠けた知恵較べがあり、今のように4WDの車や性能バツグンの武器や道具を
持たず、ある種のフェアな関係が成立していた。
 そこには、「人も自然界の調和の内にある。」というエコロジーの哲学の
ようなものがあり、山菜の採取も、今とは異なる緊張感があったのだと思う。

 この辺りでも、収穫の安定を望んで、ワラビやタラの芽の栽培が普及しています。
人は農業や牧畜をはじめるようになって、安定した食料の確保とともに、
自然から距離を置くようになり、自然に対して傲慢になった。
その傲慢さが、森や植物などの自然破壊につながり、異常気象に・・・、

 山菜採りに際して、いろんな問題はあるけれど、あの味の魅力は何事にも替えがたい。
山に敬意をはらい、山に対して丁寧に、恵みを頂戴してきたいと思います。
なにとぞ、よろしくお願いします。
 
3月23日() 月暦・如月(二月)二十四日 下弦 
季 語 と 細 部
 「春だなぁ〜」と感じる気分や事象は、ほとんどが「季語」になっていたり、
季語とつながっています。
「フキノトウ」や「水温む」といった季語は、春という季節を現す細部、一部であり、
「春」全体のなかのひとつの側面ということができる。
季語とは、季語という言葉に貼り付けられた季節を表現する感覚の細胞のようなもの。

 最近、細部というと、ミクロ、ナノとか、百万分の一秒のような極小の世界と、
WebのなかのPCというような全体と細部のことが気になっています。
極小の世界は、「こんな成り立ちをしていたのか」とか、「こんなことが、この短い間に起こっていたのか」というような、今まで気がつかなかった極細部を気づかせてくれ、
Webでの細部は、「何万人の参加者のいるWebサイトの最小単位としての個人」の
その多様性を確認させてくれる。
両方とも、その「本質」のようなものがあるのではと感じることもしばしばです。

 日常生活においては、時間や空間、あらゆる細部を意識し、感じ取ることにより、
一瞬一瞬を自覚し、丁寧に生きることができるような気がしています。
 暮らしのなかの一瞬の小さな時間に感じる季語などの季節感には、
自然の営みや、昔からの生活の中に息づく、豊かさや、美意識のようなものを
見てとることもできます。

 「細部」にはいろんな領域のたくさんの意味を見いだすことができますが
ひとつ大切だと思えることは、「細部」には、思考する萌芽とそのソリューションが
同時に介在しているということです。
3月15日() 月暦・如月(二月)十六日 満月 
変化とバランス
 3月は変化のための準備の季節。
もちろん季節の変化もあるけれど、年度末で学業や仕事など、環境の転換期でもあり、
変化に対する頭や身体や、精神(こころ)が順応するために備える季節でもあります。

 私の場合、頭も身体も急激な変化を好まない。
というより、ついていけないということが正直なところ。
特に最近は、歳のせいか変化に対する頭や身体の反応が、どうもギクシャクして、
バランスがわるく、おまけに精神の平静も乱れてしまう。

 けれども変化そのものは、なくてはならない必要なもの。
だから、ゆっくり変化をする。
頭に身体に精神にじっくり納得させながらバランスをとって、変化に追いついていく。

 季節や環境の外にも、時代の流れがもたらすテクノロジーの変化。
いま、まさに深刻なのがコンピューター、IT,Webの世界。
 Web 2.0に進化しているネット社会が、身近に、便利に、なればなるほど、
私は、それを応化しながら、エンピツを削り、ケイタイを使わず、薪を割りストーブを焚く。

 それが私にとっての、変化に対するバランスのとりかた。
ネットの進化、自然のリズム、ローキーな生活、それぞれが、頭に身体に精神に、
それぞれ納得してバランスを保ち、連携していく。

 そんなふうにして、3月、4月の、この時代の、変化に慣れていきます。
3月7日() 月暦・如月(二月)八日 上弦 
タラの芽も・・・空に向かって
 月の初め、新月から月が満ちていき、上弦、満月。
満月から今度は、欠けていき、下弦、新月へと、また戻る。
このコラムの記述周期を月の満ち欠けに沿って、書くようになってから、もうじき
一年になろうとしています。

 月の満ち欠けが繰り返されて、季節が移っていく。
それぞれの季節の営みが、人の暮らしに変化を与え、潤いを与え、
生きていくうえでの、リズム、活性化のための栄養素でもあるかのように身に沁みて
気持ちを奮い立たせてくれます。

 田舎に住んで、自然を身近に感じて暮らすということの「おもしろみ」は、
あたりまえと思えるこの季節の移り変わりにあるのだと、
あらためて思い起こさせてくれるのが、特に、冬から春にかけてのこの季節。

 植物や小さな動物たちが、秋に休息に入り、冬の間、寒さに耐えじっくりと体内で
芽吹きや目覚めの準備をする。
そして春になると、ダイナミックに我々の目の前に展開してくれる。
 
 上の写真のタラの芽は、そんな季節の象徴のように、「凛」としています。
2月28日() 月暦・如月(二月)一日 新月 
季節は、全力で・・・
 季節が移り変わる時期に、時々、思うことがあります。

 「今やれることを、やるべきことを、ひたすら懸命に進めていく。」ということです。

 生きていると、いろんなやるべきことが複雑で、遅れたり、滞ったり、
思うに任せないことがたくさんあって、ひとつのことだけに執着したり、見落としたり、
逃げたり、と、目の前にあるひとつひとつのことを全力で
一生懸命こなしていくということを忘れてしまいがちになります。

 特に、冬から春にかけての季節の変わり目は、三寒四温などと云われるように、
季節は遅れたり、戻ったりしながらも、着実に進んでいきます。

 仕事、家事、食事、学習、休息、吸収、発散・・・などなど、
やれること、やるべきことを、しっかりと受け止め、把握し、全力を投入する。
ひとつひとつを手を抜くことなく、頭に、身体に、精神(こころ)に、浸透させていく。

 何のことはないあたりまえのことなのですが、
閉ざされた冬から春へと開いていくとき、そのあわただしさ、高揚感などから
地に足がつかず、気がついてみると、何も残っていない喪失感を感じる
五月病のようなものに陥ったりすることが多々あります。

 季節に関係なく、自分を見失うことなく、しっかりと、目の前のことに、
一生懸命取り組む。
基本中の基本なのですが・・・。
 
2月21日() 月暦・睦月(一月)二十四日 下弦 
身近な春
 立春、雨水と暦は流れて、0度以下の温度の日がだいぶ少なくなり、
雪は霙や雨に変わり、春はそろりそろりとやってきます。
 昨日は、午後過ぎから水分を多く含んだ重い雪が数センチほど積もり、
春の淡雪の呈で、ぬかるんだ地面も、真冬の凍土の硬い色質とは違った
有機質を含む濃い茶色に変わってきています。
それは、地面の下で、春の芽吹きのための準備が整ってきているからだと思えます。
木々の枝も、内に花や葉を蓄え、膨らみ、ほんのり色づき、もうじき新芽に蕾に、
かわろうとしています。
日の出、日の入りの位置も、陽の光の角度も、風の吹く方向も、匂いも、
虫や鳥も、川や空の色も、・・・、
いつも身近に感じているあらゆるものが春に春にと歩を進めています。
 殊更に意識しなくても、見慣れている風景、事象のなかに、移り行く自然を
感じとることで、日々の暮らしがいきいきとリズムをもって立ち上がってきます。

 毎年同じように繰り返される季節の営みにも、毎年違った発見や驚き、
悦びや愛しさを感じ取ることができ、その「新しみ」が生活の新しいリズムを作る。
そんなふうにして、日々の暮らしも毎日毎日生まれ変わり、
静かに動いていきます。
2月13日() 月暦・睦月(一月)十六日 満月 
ジビエ料理
 もうすぐ、猟期が終了しようとしている昨日、「2頭も獲れたから・・・」と近所の方から
鹿の肉をいただいた。
この辺りは秩父連山につながる山深い土地柄で、農耕地が少なく、昔から林業、
狩猟という「マタギ」的伝統が残っていて、休日猟師も、けっこう多いのです。
早速、一日目は薄く切ってシンプルに焼肉です。
あっさりとポン酢で頂きました。
やや草の香りの匂い立つような野性味のあるくせのつよい、おいしい味わいでした。
二日目は、煮込み、シチュウです。
薪ストーブでじっくり煮込んでおいしくできあがりました。
妻が言うのには、ビールを500mmリットルも入れたそうで、
なかなか深い味わいがして、堪能しました。
 若い時、ヨーロッパに滞在していたころ、ヒッチハイクで田舎に旅をして、
食べたジビエ料理を思い出します。ドイツ、フランス、イタリアなど、
好んで地方の小さな路を探しては旅をしていました。
小さなレストランと泊まることのできる部屋があるオーベルジュのような宿で、
ユースホステルのようなところで・・・、
あまり細かい味は覚えていませんが色んな野生動物の煮込み料理をいただきました。
味というよりも、通常の牛や豚の肉ではない珍しさに感動したのと、
田舎町の雰囲気が心地よくて、その情景とともにぼんやりと懐かしく思い出されます。

 春、ジビエや山菜など、おいしい食材が出回ります。楽しみです。
まだ、煮込みの残りがストーブの上に載っているので、それもすごく楽しみです。

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