column
コラム  アーカイブ (6)

5月27日() 月暦・皐月(五月)一日 新月  
時の流れ
 季節が移る。季節が流れる。というけれど、
その時、それ自体の時間の流れを体験していることは、知覚できない。
枯れ枝に芽が出て、葉が繁り、青々とした木になる。
地面に小さな芽が出て、たくさんの雑草でおおわれる。
爪がのびる。髪が長くなる。背丈は伸び、、シワもふえる。
知らなかったことを覚え、覚えていたことを忘れる。

 自然の変化により、身体の成長や衰退により、
結果として、時間が流れていたことは示されるが、
今、時間が流れているというリアルな感覚は無い。
結果としての時間の流れは、過去のもの。
現在(いま)、流れている時間は、未来に続くかもしれない不確かな時間。

 自然と対峙していると、様々に変化する様々な時間の流れがあることに気づく。
短い秒や分で変る水の流れや陽の光の移ろい。
月の満ち欠け、地球の自転による太陽の位置。
繰り返される季節、更に繰り返される年月。
十年前に植えた木蓮の幹の太さ、成長の証し。

 「不易流行」
どんなに月日は移り変わっても、朝の来ない夜はない。
芭蕉の世界観は、こんな感じなのだろうか?

 どんなに息を止めても、目の前の時間は動いている。
5月20日() 月暦・卯月(四月)二十三日 満月  
新陳代謝
 久々に深い山に入ってきました。
芽吹き時の林の中は、「生」に満ちていて活力に溢れています。
どの枝先を見ても、地面を見渡しても、それぞれ生まれ変わって、まだ色も形も
薄く弱々しいけれど、林全体に生命の息吹のようなものを放っています。

 林の中は、静かにひんやりと葉陰に隠れた部分と、木漏れ日に映し出される
明るく、きらきらした部分と、光と影の織り成す空気感はなんとも心を落ち着かせ、
身体も浄化されていくようなすがすがしい気分になります。
わずかな時間の流れの中でも、その光と影は緩やかに動いて、
林の景色を刻々と変えていきます。

 「森林浴」とは、よく言ったもので、ほんとうに木々や植物の放つ
「気」のようなものを浴び、浮遊する気分になります。

 木々の下、地面と地面に接する低層の植物帯もシダや苔類の美しいこと。
他にもたくさんの様々な葉を持つ植物が、たくましいこと。
 ナラやブナの木々に寄り添うフジやアケビなどの蔓類のしなやかなこと。
目線が変るごとに、自然のいろんな要素が頭に身体に飛び込んでくる。

 通り過ぎるだけ、ちょっと立ち止まるだけで、森の循環を、感じる。
眼に見えないところでも、苔の下、地面の下に菌や微生物が活動し、
空気の中の湿気が様々な生物に作用し、新陳代謝を促し成長している。

 それに触れているわたしも、心の新陳代謝が進みます。
5月13日() 月暦・卯月(四月)十六日 満月  
里に降る雨
 昨日から10度ちかくも温度が下がって、雨が降っています。
「ひと雨ごとに春がやってくる」
「雨降って、地かたまる」
「恵みの雨」
など、雨にまつわる言葉は、自然に囲まれた暮らしの中でごくしぜんに実感できます。

 この季節の雨は、季節の移り変わりを示す句読点であり、
雨の日のもつ憂鬱さや、温度差からくる肌寒さなども打ち消すぐらいの
あざやかな濃淡の緑色が周囲にあふれて、
活力溢れる季節への期待感のようなものでいっぱいになります。

 子供のころ、雨の降る日は、けっして嫌な日ではなかった。
生活の中にいつもとちがった変化をもたらして、晴れの日とはちがった遊びや
気分をあじあわせてくれる、たまにくる面白さとして、それはそれで楽しかった。

 今も、意識して「雨」を見つめてみると、雨の降る背景にいろんなものが見えてくる。
まず、空や山など遠景が霞んで、視野が狭まれたぶん、身近なものが
際立ってきて、普段とは違った視点でものが見えたりする。
家のごく身近な周囲、部屋の中、クローズアップする物や事。

 雨の日は、狭くなった視野が更にその内部にまで入り込んでいって、
内から外を見たいというような分析的な眼を持ちたいという気分にもなる。
これは、私だけのことかもしれないが・・・。
晴耕雨読ともなにか繋がるものがあるような気もする、雨の日のこの気分。

 いづれにしても、里に降る雨は、身近なものをイキイキと甦らせてくれたり、
ちょっと内省的にさせてくれたりと、なかなか良いものです。
5月5日() 月暦・卯月(四月)八日 上弦  
祈り
 轆轤(ろくろ)成型したばかりの器です。
灰色の土の塊が、茶碗になるために初めて形を成した、いわば生まれたての状態です。
これが使える器になるのには、まだ幾つもの工程を経なければならず、
状態も何度か変化し、その状態ごとに適切な処理が行われ、
成長していかなければならない。それにはかなりの時間を必要とします。

 モノができていく過程、なにかが成長していく時間。
人は祈る。自分でできるだけのことは精一杯やったうえで、それ以外のことは祈る。
狩猟においても、農耕においても、昔から人力を超えた自然界、更に目に見えない大きな力を「神様」と言ったりしながら、それらに対して祈り、約束する。
 「人がすべきことは全て行い、『世界の調和』の中の一人として考え、
行動していきますから、どうか成果をよろしく・・・。」と、祈りとともに誓う。
 成果を積み重ねていくことと、生きていく生活を一体化して考える一途でシンプルな
思考は、行動と祈りの関係を更に密接にし、自分自身の精神(こころ)の在り様までも
約束の対象としていく・・・。

 確かに、プリミティブな狩猟や採集・農耕の社会では、神との契約のうえに生活があり、
それが秩序となり生活の土台になったようなところがある。
今も、農業、水産、林業など、地方の生活の中には、そんな精神風土が残っていて、
自然とともに生きる奥行の深さのようなものを感じる。

 やきものも、その過程において尽力し、成果を神に祈り、それを継続していく仕事。
「かたち」のスタートにあたって、「うまくいきますように・・・。」と、祈りを込めたときに、
いろいろと考えが巡りました。

 生きていくことも、そうなんですね。
4月28日() 月暦・卯月(四月)一日 新月  
走り
 季節に先がけて出てくるものを「はしり」といいますが、
「旬」(しゅん)という言葉と、ちょっと混同しがちになります。
「はしり」は、あくまでまだその季節に完全に移行したわけではないのに、
ダッシュ、先行の「出初め」をいうのに対して、
「旬」というのは、食べ物でいえば、一番おいしい最盛期、つまり「出盛り」を
いうのではないかと思うのですが、間違いでしょうか?

 商品開発などの市場展開においても、やはり「はしり」と「旬」があると思うのですが、
この場合の「はしり」は、季節の場合と違って、後になってそれに続くものが無ければ、
ただの「ヒットしない商品」だったということになってしまいます。
「はしり」として市場に存在するためには、今までに無い切り口の新鮮さで
誰もが気づいていないうちに、多くの人が求めるものを出現させるということ。
そして、それが拡大して「旬」の季節があり、安定、持続する通常期に移行していくこと。
この流れが無いと、けっして「はしり」の商品とはいえない。

 「はしり」を「はしる」ということは、なんにしても孤独なもの。独自性も必要。
そして、後が続いてくる先頭及び先頭集団でなければならない。
はしりだすためには、自己確認やら、リスクの確認やら、様々なある種の
覚悟をして臨まなければならない。

 今年になって、始めて目にした中型の蛾。
急に温度が上がった日のあとにベランダに面するガラス戸に張り付いたまま、
次の日から、また温度が下がってしまったのにジィーッとしたままです。
この蛾もたくさんの困難に耐え、大変な覚悟をして、羽化してきたのでしょうか?
いずれにしても、先頭を走るって、たいへんなことなのですね。
 

 Column アーカイブ (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)