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7月4日(火) 月暦・水無月(六月)九日 上弦  
転機
 今回もサッカーに関連して、思ったことを少々。

 何よりもビッグニュースは、中田の引退です。
人は誰も、何度かキャリアの転機をむかえます。
ケースによって違いますが、一つの事にまい進して時がたつと、
周囲の状況や、自分の精神的、肉体的状況の変化により、
それまで蓄積してきたキャリアの転換を余儀なくされされたりします。

 この時、その同じ道で更に、総合的、管理的キャリアを積む事を選ぶか、
同じ道ではないけれど、それまでの経験が直接活かせる、関連業種を選ぶか、
それとも、まったく別の人生を洗濯するか、
いずれにしても、この転機をどう迎え、どう決断して、どう進んでいくかは、
重要な課題です。

 世阿弥の『花伝書』にも、一つの道を極めていくうえでの
キャリア転換の道筋、精神(こころ)の在り様などを説いていますが、
昔から、どの道を歩むにせよ、自己の在り方と、自分の進む道のシンクロは、
人を悩ませるようです。

 特に、芸事、スポーツ、アートなどの創作的な仕事においては、
直接、自己をさらけ出しながらの判断にならざるをえないので、
中田のように、衆目の中での引き際をも意識しての選択は、
相当に大変な事のように思えます。

 何かをオペレーションしていくということは、自分自身のことにおいても同じで、
先を見通して、それぞれの転機を、自分自身を見つめ、
より納得するジャッジをしつづけていかなければならないのです。
6月26日(月) 月暦・水無月(六月)一日 新月  
普通の全力
 連日、ワールドカップサッカーの好カードをTVで見ていて、
伯仲したゲームに一喜一憂しながら、思ったことがあります。

 90分のゲームの大半は、攻撃に繋げるための準備をする小康状態か、
点をとられないための守備の徹底に終始する。
強いチームは、よく守る。守るためによく走る。
点を採られないためだけに、生き残るためだけに、必死で走る。
 点を採りにいく、何かを得る目的のために費やす時間は、守るための時間に比べると、
極端に短くて、一気呵成に集中的だ。
 それが90分のゲームの中で、相互に何度も何度も、繰り返される。
守る時間、ゲームを組み立てる時間、攻撃する時間、
それぞれ目まぐるしくその境など見えないくらいに、連続する。

 守るために、しっかり走り、そこに死力を尽くして戦わなければ、
攻撃のきっかけも掴めない。
守ることに手を抜けば、攻撃に転ずる、点を採るチャンスは永遠に来ない。

 人の生き方にも、同じことが言えるかもしれない。
何か目的に向かって、攻めの態勢で臨んでいる時、
そうでなくて、普段の普通の生活をおくっている時、
目的を模索している時、そのどれにも全力で走り続ける。
 普段の普通の生活に必死に全力で取り組まなければ、目的も定まらず、
チャンスも訪れない。

 よく見れば、周りの自然にだって、それが言える。
毎日の水分摂取や、光合成を一生懸命やらなければ、花も咲かず、成長もしない。

 なんて、サッカーって、スポーツって、奥が深いのでしょうか。
6月18日(日) 月暦・皐月(五月)二十三日 下弦  
初夏の朝
 このところ、ワールドカップサッカーのせいで昼夜の区別が失われていて、
朝が眠く、なかなかいつもどうりに起きることが出来ません。

 夜が明けて間もない、午前5時ごろ、ウグイスがきれいな声で鳴く。
早いリズムの地鳴きがつづいて、「ホーホケッキョ」のさえずりが空気を裂き、
まだ、フトンの中で夢と現(うつつ)の境で、ウトウトしている頭の中に
沁み込むように響きます。

 続いて、階下で猫がいつもより高い、誇らしげな鳴き方を断続的にして、
二階の我々を、呼び起します。
「あ〜、まただ。」と憂鬱な気分に落ちっいっていると、妻がシブシブ起き上がり、
ため息混じりの何かをつぶやきながら、階段を下りていき、
その足音を聞きながら、わたしは、ほっとして、また、ウトウト。
そう、この大事な仕事は、いつも妻の役割で、わたしは感謝しています。
 それは、夜行性の猫が小さな野鼠を狩って、獲物を披露する合図の鳴き声で、
妻は、その獲物を裏のベランダ下の林に埋葬するのです。
埋葬と言っても、まぁ〜、放るだけなのですが・・・。

 こうして初夏のこの季節、鳥の鳴き声と3,4日に一度ぐらいの
猫のハンティングによって朝は明けるのですが、
それにしても、この早朝から、ウグイスは恋を誘い、猫は食料を探す。
おまけに、木々は空気の浄化を済ましてる。
それぞれ、みんなハタラキモノで、それぞれやるべきことを
朝から張り切ってやっている。

 そんな1日のスタートは、やはりすがすがしく、気持ちいいだけでなく、
心して人間のやるべきことを探して、やっていこうと、空を見上げて、庭に出ます。
6月12日() 月暦・皐月(五月)十七日 満月  
伝統の梅雨
 関東地方は、あまり雨の気配がなく、暦の上での入梅がやってきました。
この季節の植物や作物にとって、一番大切なものは言うまでもなく「雨」で、
この降雨量の如何で田植えなどにも影響がおよびます。
雨が降らないと、水田に水がいきわたらず、稲の根付きや成長が遅れたり、
収穫量や味にも、ボディーブローが後になって足腰のたたないほどのダメージに
繋がるように、秋の収穫時には、大変なことになってしまうかもしれません。

 それは、果実や他の作物、植物にもいえることで、また、その連鎖の影響力は、
地中のバクテリアや微生物、野山の昆虫や小動物・・・、つまり生態系の変調
というところまで繋がってしまうのです。
これは、大袈裟なわけではなく、山に囲まれて暮らしていると、
毎日の生活、時間の経過の中で、ヒシッと感じるのです。
まさに、赤ランプが点滅するように。

 もちろん雨は降ればいいというものでもなく、降り過ぎて洪水や地滑り、崩落
などに繋がろうとなれば、これまた大変なことです。
ここ数年、地域によって、その被害の状況も拡大しているようです。

 長い間、連綿と続いてきた季節の営みも、このところ狂いがちで、
梅雨の梅雨としての役割を全う(まっとう)できずにいます。
梅雨という季節の区切りは、農業やそれに連なる田舎の生活習慣や
生活文化という暮らしの一コマ、一コマに関わってきます。
 これは、梅雨に限った事ではありませんが、
季節の気候変化や特徴が崩れてくると、昔からの風習や伝統の暮らしといった、
田舎の暮らしに細く、かろうじて受け継がれてきた先人からの
「贈りもの」までもが希薄になってしまいそうです。

 冬はしっかり寒く、夏はおもいきっり暑く、梅雨はちゃんと雨が降る。
あたりまえの季節がめぐって欲しいと、ちょっと降った雨にぬれた紫陽花などの
緑を眺めながら、ふっと思うのです
 

6月4日() 月暦・皐月(五月)九日 上弦  
Photo is ・・・
 最近、似かよった2つのテレビコマーシャルが気になっている。
ひとつは、ある新聞社のコマーシャルで、
老若男女、いろんなシチュエーションの人が 「言葉は〜〜」 と言いながら、
次々に画面が変っていくオムニバス形式のもの。
もうひとつは、カメラかフィルム会社もので、
オノヨーコが 「Photo is 〜〜」 とそれぞれ異なる意味の語を
話しているコマーシャル。

 両方とも「〜〜」の部分には、夢、記憶、希望などといった
「言葉」、「写真」を意味し、連想する言葉を並べていて、映像もよく、
インパクトもあり、全体的に良くできた好きな部類に入るコマーシャルだ。
このコマーシャルに共通していえるのは、その作り方のスタイルばかりでなく、
その主語の持つ多面性や多様性を様々な角度から捉え、並列に置いている点だ。

 あたりまえだけれど、言葉にはたくさんの意味があり、捉え方がある。
けれど、普通の生活の中では、猫を見て、
猫はかわいい。猫はうるさい。猫はいじらしい。猫はきつい。猫は気難しい。猫は気高い。猫は精悍。猫は孤独。猫は柔軟。猫は優美。猫は俊敏。猫は陰険。猫は怠惰。
などと、同時に並列に思ったり、感じたりしない。
せいぜい、「猫は時々気難しいけれど、ほんとうにかわいい」などと
二つか三つぐらいしか、同時には考えない。

 言葉の意味や概念は、時代や自分の年齢や経験によっても違ってくる。
人が言葉の意味や概念を考える場合、瞬時にはそれほど幅広く、
深く考えている訳ではなく、その時の自分が思考しうる表面的な浅い概念でしか
判断できない。

 期しくも、同じスタイルのものの意味を多面的に捉えたCMが同時期に2つも
出現するということは、このグローバルな時代のある種の提言なのか?
「今の時代、言葉の意味や概念をもうすこしを幅広く多面的に考えなさい」という。

 ちょっと、考えすぎかもしれませんが。

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